人の死2
人の死1からの続き…
その時代はまだ携帯も今ほど普及しておらず、家の電話でよく友達と長電話をした。
その人との会話中、「ちょっと待って。」と言って受話器から少し話したところで大きく咳き込む事が出てきた。そして「今こぶしぐらいの血を吐いた。」と言うようになった。
やはり幼い私は重大さもわからず聞き流す日々。病院行きなよーって言うだけだった。気づくと彼は入院していた。
入院先からもいつも通り電話をしてきた。たわいもないことを話して、でも時折違和感のあることを言っていた。「医者がなんの病気か言わない。」「今無菌室にいる。」
大人になった今ならすぐわかる。とにかくただ事じゃないんだって。
でもその時は、この人は何があっても、まして病気なんかで死ぬような人じゃない。治療が終わればまた退院するだけだ。ト、オモッテタ…。
確か運動会の練習の日だった。彼はその学校の卒業生だったけど、弟妹もその学校に通っているけど、
なぜかその人のお母さんが学校にいるのを見た時すごく嫌な感じがした。
すぐに話していた先生にどうしたのか聞いた。「危篤だって。」
え?きとく?危篤って何?誰が?なんで?
死ぬわけないよね?ミラクル起きるに決まってるでしょ?ミラクルって言葉はこのために出来たんだよ!
嘘に決まってんだろって笑ってるはずだよ。そうに決まってる!
ドラマじゃないけど、本当にそう思ったし信じたの。次の日訃報を聞くまで心から信じたよ。
私の初めての体験だった。どんだけ祈っても叶わない時がある。信じる者は救われないじゃん!
それからしばらく、死ぬって事がよくわからなくなった。
死ぬってもう電話できないし、顔見れないんだ。
死ぬってもう笑わないし、声聞けないんだ。あ、そうか、もうこの電話番号かけても出ないんだ。。
放心状態でそんな事が頭の中を回った次には
なんでよ!嘘だよ!そんなわけないじゃん!いつも笑って〇〇って言ってたじゃん!とか
一緒にどこどこ行こうって話したじゃん!これから誰に自分を打ち明けたら良いのよ?
いつも守ってくれたじゃん!とか
段々落ち着いたけど、数ヶ月はそんな感じだった。思い出しては泣いて、受け止められなくて。
身近な存在とそうじゃない時で、こんなにも違いがあることに驚いた。中学生ではまだそんな気持ちを相談しても理解できる友達もいなくて、何年かすごく苦しかったのを覚えてる。
その人がこの世にいたことを1人でも多くの人に聞いて欲しくてつい話して、ショックを受けた。
母親になった今、また違う目線でふと考える時がある。その人のお母さんの気持ち。
どれだけ辛かったか。どんだけ悲しかったか。寂しかっただろう。
家にお邪魔してた時、よく親子ゲンカを見た。旦那さんを失って、荒れてしまった息子にかける言葉もわからずにいるうちに、今度は長男を失った。
信じられない。
こんな経験をさせてもらった私は、その時から正直に人と向き合うことにした。思ったことは直で言う。大事な人ほど。たいして好きじゃない人はどうでも良い。むしろ適当に無難な事しか言わなくて良い。でももし大切な人なら絶対にその時思ったことを伝えた方が良い!
嫌われるかどうかなんてどうでも良いんだ。人はその都度考えも変わる。相性も変わるし興味だって変わる。しがみついてる必要なんてなくて、大事なことは一緒に居られる間、どれだけ心を通わせて思いっきりその時を共に楽しめるかだと思う。真剣に。真剣だったら討論する事だってある。でもそれぞれでいいんだし、それが人の良さだと思う。気持ち良く付き合う。それが私の今のスタンスかな。
自分は自分でいてほしい。自分の大切な事は自分で守る。人からどう言われようと、気が合わなければ付き合わなきゃいい。一本筋を通す生き方。そしたら思う存分人生を楽しめるんじゃないかな。
そしたら離れた後もずっと友達。連絡とらなくても会わなくても、その時感じた喜びとか幸せが、一生自分のものになってくれると思う。自分の子供に伝えられたら良いな。